260719

暑すぎて街が白い。近所のファミマの店頭にあるガチャガチャの、割と最近出たようなシリーズの紙が、日に焼けてかなり薄くなっている。海辺の寂れた本屋にあるスライムとかスーパーボールのガチャガチャぐらい、それ以上に日に焼けている。寂れるって概念が贅沢だったのかなとか思えてきた。少しずつ荒廃していけるのは。なぜかいつもこういう日差しの中道を歩くと、原子爆弾のこと考えてしまう。一瞬で真っ白になってとにかく熱いみたいなイメージを重ねてしまう。この日差しの何倍熱いのか、今gptにきいてみたら、100倍以上って言っていた マンガの真っ白なコマのことも思い浮かべる。

資本主義が周縁の資源を食い尽くすと言っていた真理のホワイトボードの講義は、AIの話だった もはや東京も都市から資源を搾取されているだけのように感じられる、東京はすでにどこかの誰かから周縁だと思われているようだ 

マンキウィッツを2つ見た。『3人の妻への手紙』『イヴの総て』Netflixより面白いドラマ。電車が通ると揺れる家はセットなのか、本当にあるのかな レストランやお金持ちの家などの豪華な室内が本当に美しいけど、モノクロマジックなのだろうか、みんながまだ人が作ったマテリアルたちに感動してる時代だからなのか

『海辺の一日』見に行った。嘘みたいに素晴らしいのに、長さが仇となりすぎている、変な映画だけど、それだからこそ、映画の中の時間で完全にくつろぐことができる。

どうやらみんなは自分のことを精一杯やっているから、それで忙しいらしい。

幸せとは集中している時間のことだと濱口竜介が言っていた、それは本当だと思った。

ソウルも暑かったのに人が平気な顔して歩いていた。鍾路3街の初めて行った通りは、おじいちゃんとおばあちゃんで一杯だった。ビルの2階にある店に行ったら、おじいちゃんのグループがいくつも平日の昼から肉を焼いて焼酎を飲んでいた。本当に素晴らしい。いくつものおじいちゃんのグループが昼から集まり尽くしてる。そんな店東京にもあるんだろうか。

食堂で食べたスンドゥブと白ワイン専門店のワインが美味しかった それなりの値段のワインがあんなに美味しいことは本当に素晴らしいことだな もっと高いやつは一体どれだけ美味しいんだろう と思わせてくれたりもするので

ソウルではオシャレなカフェにも現代美術の展示にも老若男女がいることがマジで眩しい、毎回

市長駅で人が大通りにたくさん出て賃金上昇 安全な職場を掲げたデモをやっていた、大きなスクリーンと音楽で、警備している警察の顔が、この前国会前で見たそれと全然違っていた、涼しい顔だった デモを邪魔するやつがいたら止めますよみたいな顔に見えた そもそも体の向きから違った、デモしてる人たちを背にして立っていた

誰かを迷惑がること を仕事していること に換算してる人が社会にいることに、いまだにびっくりしてしまう メカニズムが理解できてない。

国会前のデモに行ってみた時のストーリーにhellotalkで知り合った韓国の人から返信が来て、日本人はみんなタカイチが好きなのかと思ってた、って言ってた、そんなことないし、止めたいんだよねって言ったら、일본도 잘해낼거야 !! 카나코 처럼 힘내다보면!と言ってくれて、일본도っていうのは、(韓国みたいに)日本も、って意味だと思うから、眩しい、眩しかった 私の名前はカナコと間違えているが、まずはありがとう

힘내다보면とのことだが、힘내というのはいったいどのようなことなのだろう デモを見に行くことだけではなさそうだが

かこさとしも、ヒルマアフクリントも、展示を見に行った時、宇宙や物理の仕組みに夢を見てたんだなあと思うような絵がたくさんあって、そういう夢のようなものが、もはや描けないような気がしていること

 

 

 

260429

 

毎日いい天気。

またはてなブログのフォントが変わったみたい。おかしい。全然いいフォントじゃないな。これはなんだ?私の携帯のバグ?

就活以外全部できるのに就活だけが全然できない。なにかがおかしいんだろう。

人相も戻ってきたし、周りの人への信頼も戻ってきた。この先失うという予感すら今はもうない。

友達のブログしかまともな文章がインターネットから(見つけられ)なくなってしまった。友達のブログがあるだけまだましなんだろう。昔のツイッターはもうどこにもないんだから諦めないといけないのに。

SNS本当にやばい、何もない、何もないのに見てしまう、悪魔の発明

どんなwebインタビューも聞きたいところまで話が及ばない。尺が足りてない。全く足りてない。要約には、要約する前のほんの何%かくらいしか意味がない。必要としてるボリュームに辿り着いてない。無料の記事しか読まないから。みんなはどれくらい有料の記事を読んでるんだろう。

現代思想だと研究者が書いた論文しか読めないし、文芸誌の枠組みで切り取られ得るもののなかにも私が欲しいものがあまりないような気がしてるけど、各社のを真剣に読んでみたわけでもないから、一回やってみた方がいいのかも。こないだ銀座でもらった岩波のフリーペーパーは良かった。こういうのをもっと探して継続的に触れるしかないか。PHPという月刊誌も何回か図書館で読んで、私が求めてるものに少し近いけど、もっと雑多であるといいなと思う。責任を持って編集された、時代性のある、含蓄がある雑文を一気に読みたい。

ジャンル分けされ得るものに興味がないのに、ジャンル分けばっかり進んで本当に面白くない。ジャンル分けしづらいものが全部埋もれていってしまう。

売り切れのガチャガチャにもボンボンドロップシールにも全然興味ないのに知らない人とする話がそれしかないのは本当に絶望的だった。でも人気のガチャガチャをその辺にいる人と交換するのはとても楽しかった。交換。交換はステキ。みんなが幸せになれる。SNSで人気のガチャガチャがある場所としての店頭。そういう現実の使い方もVR的で面白いとは思うけど、現実ってそんなに簡単に捨てるのもったいなくない、視覚以外全部捨て去って。って思ってるからみんな山登ってる。ガチャ集める人と、山登る人。面白くない。クラスター?よりは界隈の方がましなのかな。

東京はこんなに壊れているのにみんな当たり前みたいに生きていてそれがそもそも受け入れられない。そんなこと言ってたらもう生きられないってわかるけど、半径10mのことだけ、家族と友達と美味しいご飯のことだけ考えて生きることの方が数億倍遠いことに感じる。壊れてるのは私の方なんだろうか。半分くらいそうなんだろう どうしたら直るのかな こんなにバラバラになって?

現実のすべてがバラバラになったところを、村上春樹の文章を読むと、なんか全部繋げられる感じがする。文体。バラバラになった感覚が全て映画になってると感じたのは、『女は女である』を見た時、アルトマンの『イメージズ』もそんな感じだったかも『アブラハム渓谷』も。バラバラの感覚がそのまま画面になっているのが映画で、バラバラになったものを繋げられる力を持ってるのが文体?フィクションの力  生活は、現実はあまりにも複雑で味気ないし、膨大で困難なので、フィクションをもっと頼るべき?

文体っていうか現実の描写の方法なのかな。英語小説の翻訳風に日本の風景を描写してもらうことが有難いということなのか?これってだとしたら韓国語の直訳日本語文体に救われるのとかなり近い現象なのではないか?

 

 

 

 

260331

 

3月の終わりだ 暖かくなってきてから明確に元気が出た でも去年や一昨年のような極端な躁ではなかった それが何よりだった 

テテが「虎とライオンのどっちが強いかで友達と1時間議論した」と言っていた。韓国では定期的にこういう論争が流行っている。エゴマの葉論争や、麒麟の首にネクタイをつけるならどの位置か論争など。ディベートが授業に組み込まれていることの成果なのだろうか。NewJeansもディベートが上手かった。YouTubeのBDNSチャンネルに出演したテテとRMとホストのムン・サンフンの会話は面白かった。冒頭でRMがサンフンに書いてきた手紙の手描き文字の雰囲気と内容が良かった。RMは手紙を書くのが異様に上手い。今の時代にそんな人がいるのかと思う。

テテが先に美術館に行くことにハマっていて、それを見てRMもシカゴ美術館に行ってみて、そこで見たスーラの『グランドジャッド島の日曜日の午後』が良すぎて30分くらい座って見て、その時から美術にハマったという話が良かった。2人が絵について説明している様子が良かった。

最近やっと朝の散歩が定着し始めた。散歩と捉えずに「外出」と考え、引き返したくなったらいつ引き返しても良いと思うことが大切。時々慢性的に立つのも座ってるのも辛いという状態に陥ることがあり、それは数日続けて朝散歩するとなくなることがわかった。自律神経の問題だということにした。

YouTubeの上半身セルフ整体みたいなやつをやってから寝たら憑き物が落ちたように肩が軽くなった朝があり、これまでずっと肩と首が過緊張的なやつだったのかなと思った。前より眠りやすくなった。

切り干し大根が好きすぎて毎日味噌汁に入れている。長谷川あかりの粉チーズと切り干し大根のサラダも良かった。加熱しないニンニクを使う長谷川あかりのレシピを作る時、毎回入れすぎて失敗する。ネギのみじん切りが全く上達しない。塩の量の感覚だけはやっとわかってきたような...

もっと感覚に沿って自由な気分で日々を過ごしたいが、それがどうしてこんなに難しいんだろう。

一人暮らしに挫けてから、自分にとっての最低限が何なのかをずっと探し続けていた気がするけど、だいたいわかってきたかもしれない。大きい作業机は絶対に必要で、ソファも、要る そしてデスクトップのパソコンは最高!ノートパソコンは最悪!出来ることなら一生使いたくない!

Quoraに質問を投稿してみたら30件以上回答が来て、良くない回答もあったけど、良い回答もあった。新しい情報は一つもなかったけど、他人から他人の言葉で言われるのと自分の頭で考えることとは全く違うなと思った。そして回答者はおそらく全員おじさんだった。おじさんが人に何かを教えたい、自論を説きたいという欲を解消するSNSのようだった。

『自分ひとりの部屋』図書館で借りて読んでたけど途中で購入した。文体がこれで合っているのか気になる。こんな"女性らしい"雰囲気に仕上げる必要があるムードが原文にあるのかな?ジョージ・エリオットが女性ということを知らなかった。『高慢と偏見』も読んでみたいな。嵐が丘全然読み終わらないな。河島弘美訳が良いと言ってる人を見て買い直すか少し悩む。今読んでる鴻巣友季子訳があまり良い感じじゃない気がしてきている。先に結末を知っている人の文章になってしまっている感じが嫌かも。それだと物語の臨場感が半減してしまう。

右足の人差し指の上にBluetoothスピーカーを落としてすごく腫れた。痛い。

湿度がすごい。桜の時期は絶対雨が降る。

『愛の光』1話 夏休みの学校で唯一電気を使うことを許された図書館で2人勉強するという青春シチュエーションに喰らった。平日に学校を休んでソウルに行った帰り、夜のガラガラの特急列車に2人で乗るところも良かった。『この恋通訳できますか』のイタリアのエアビーが停電してキスするとかいうシチュエーションもいまだに忘れられない。韓国ドラマはシチュエーションに真剣に向き合ってくれている 感謝

映画館で見たホンサンスもシャブロルもなんかすごく良かった!余韻がある。なんかすごく良かった。なんかすごく良かったって思うこと最近少ないから。良かった。

 

 

 

260305

もう3月になった。BTSが帰って来つつある。アルバムタイトルは『ARIRANG』、アルバムのタイトル曲は『SWIM』だということが昨日分かった。芸能人としてアイドルとしてアーティストとして生きていくことを、"走る"から"泳ぐ"に例え変えることにどんな意味を持たせているのか気になる。やめたら溺れてしんでしまうというところが主な違いになるんだろうか。RMは全ての曲の制作に参加している。フーリガンというタイトルの曲がある。生きててくれるだけでいいと思うのに、良いものを期待してしまう矛盾が辛い気がしてくるだけな気がしてくる。BTSたちはミンヒジンとNZとパンシヒョクについてなにも自分の口から話せないことに苛立ちを感じてるように見える。会社に人質に取られてるようにしか見えなくて切ない。今回の契約は何年なんだろう。

ハリースタイルズが私と同じ感じで村上春樹に救われてた話をしてたので、英訳しても良さって失われないんだと思ってかなり驚いた。 

昼暖かい(少し暑い)のに夜結構寒い。昼間ソル・ルウィットの展示を見に行った。厳格さ芸の人だった。ストローブ=ユイレ以来の。執拗なまでの厳格さには何故かすごく癒される。どの作品も特にサイズが厳格すぎてありがたかった。厳格すぎるとありがたいし笑えるし癒される。これってどんなコメディよりも幸せを生んでいる可能性もあるのではないかとか思った。私がそういうタイプなだけなのか、それとも皆んなに共通のことなのか気になる。

三島にあるベルナール・ビュッフェ美術館も行った。パリの画家!のイメージそのもの。美形すぎて驚いた。黒って良いなと思えた。黒い服を着る時ビュッフェの黒をイメージすると肯定的なイメージで着られるようになった。黒が好きじゃないのかと言われると難しいけど、大手を振って心底大好き!といえる色ではないような気がする、自分にとって。でもビュッフェの黒はとても良い。生きていく感じの黒。

『嵐が丘』エメラルド・フェネル 見た。パンクだと思った。そして前作同様キャシーが最後に死ぬ映画だった。日比谷TOHOのスクリーン1で見たらかなり良かった。日比谷TOHOが今一番好きな映画館だと思う...スクリーン1か12

この映画でヒースクリフは、女性が欲しい言葉だけを言う機械?人形?モノに成り果てている。人間性は奪われている。ナウシカがおじさんの胸に飛び込んで泣く描写を見た時と同じ気持ち悪さを、これを見た男性が感じることがあると思うんだけど、どうなんだろう? 女の子(とあえて言っていい気がする)が望む、人間らしさを全て度外視したエロい男として、ジェイコブ・エロルディーがずっとセリフを言っている。女をモノとして撮ってきた映画は、この世に無数に存在している。それは当たり前すぎて、誰も突っ込まないレベルで浸透していることでもある。女の身体をモノとして映すことがアートなことみたいに思われていた時もある。いうまでもなく映画業界では男性が中心となって映画を撮って、映画を評価してきたからそういうことが起きたんだと思う。『嵐が丘』では逆に、男がモノとして撮られている。そういう歴史たちの上に立ち、張り切って人形役をやってくれるジェイコブ・エロルディーのかっこよさに胸を打たれた。それがなくともカッコよかったけど...

"やられたらやりかえす"の正当性は誰に計れるのか、裁けるのか、どちらにせよ痛みの連鎖を食い止めない時点で褒められた行動ではないと思ったりするけど、シンプルにMale Gazeに対抗するFemale Gazeの映画だってことを私はいってるだけなのかもしれないけどとにかく女性が人ではなくモノとして撮られてきたことへのアンチテーゼの映画であり、その行儀の悪さを完全に支持する。一旦ひっくり返してみるという行動じたいに意味がある。そういう実践 アクション 大金がはたかれるのにふさわしいと思う。前作も"やられたらやりかえす"についての映画だったなと思う。なかったことにするくらいならばやりかえすほうがマシだということだと思ったりする。映画の歴史もなかったことにしたらやりかえせないし。やりかえすことは、むしろ見てきたということの証左でもある。

エロ=女性の上半身や下着の露出やセックスなど あり!爆発!が(ヘテロ)男性向け"バカ映画"だとしたら、エロ=自分にだけ優しい高身長荒くれ者男性の甘い言葉やセックスなど あり!ゴージャスなお屋敷とドレス!が(ヘテロ)女性向け"バカ映画"として作られても良いのではないかという発想。センスがいいとか悪いとかではなく、そういう存在として支持している。そういうのもあってもいいではないかと言ってる人を支持してる。そういう見方でポップコーン食べながら笑いながら見た。というか日々女性の身体が強調されたもはや人間なのかもわからないような気持ち悪い絵を街中や公共交通機関の中で見せつけられて本当にバカにされた惨めな気持ちになっているんだからこういう機会もないとやっていられないとも思う。関係ない可能性も高いけど、ラップの歌詞の下品な表現とかも、こんなふうに笑える娯楽として機能しているのかなと思ったりした。それがなんとなく初めてわかった気もしてみた。全然違うのかもしれないが

原作好きな人が怒っていたりするのを見たけど明らか下心全開の二次創作みたいなクオリティだし、それをそもそも狙って作られていると思った。これは純愛と呼べないと思う。相手が不在だから。全編を通して、この映画に映る"恋愛"とされるものは、本当に無責任で、身体は介在してるふうだけど実際はただの妄想でしかない。実感がない。痛みがない。キスシーンやセックスシーンがやけにぼんやりしていてヒースクリフの顔のショットだけが整った照明の中でくっきり映し出されるのはそういう意味だと思った。

ただ本当に本当に勝手な感想だがエミリー・ブロンテが生きていてこれを見たら普通に笑うんじゃないかなとか思った

映画としての良さは上記を抜きにすると本当にほとんどない!!『センチメンタル・バリュー』にも同じくらいなかった!!花瓶が割れなかったところだけは、よかった。どちらも良い画はたまにある気がするのに、感動するような繋ぎも動きもなぜかない! 越えられない壁>>>>ケリー・ライカートって感じ ジェームズグレイもすごい!!次点でジェームズマンゴールドとショーンベイカー

ヨアキム・トリアーはやさしさこそが今の時代のパンクと言ってるみたいだけど、それも一理あり、だが女性にはもっとやれるパンクが色々ある時代

1801年とかいう今から考えたら想像もできないくらい野蛮であったであろう時代に今になって思いを馳せる気持ちもなんとなくわかると思った。世界が野蛮さに退行していくかのように見える時に、結局そこから成長なんか誰もしてなかったんじゃないかと思う時に、改めて思いを馳せたくなる気持ち

原作がいままだ112ページで、どういう話なのかわかっていないけど映画見た後の方が読むのが面白いのでよかった。読み終わったら『自分ひとりの部屋』も読みたいな そしてウィリアムワイラー版も見る リヴェットもブニュエルも見たいけど見る方法がない...

 

 

251220

 

京都に旅行に行ったのに途中でインフルエンザになって帰ってきて悲しかった。友達も、友達の友達も優しくて本当にありがたかった。

京都何度か行ってるけど今回が一番良さが沁みた。都市計画が良い。鴨川がほんとに凄い。夜、鴨川で鹿をたくさんみた。お寺の数とそれぞれのクオリティがすごい。東京と全然違う。格の違い。電車もバスも可愛い。公共のもののデザインが良い。全てのチェーン店に看板の色を変えさせる傲慢さも良い。街中に緑が多い。街のどこにいても山が見えるところがソウルと同じで良い。

美味しい食べ物へのアクセスしづらさは東京より少ないか、同じくらいかなと思った。知らない食べ物がたくさんあるのは面白い。

言葉を字面通りにしか受け取れないところが年々強まっている気がする。自覚が少しできるようになっただけかもしれないけど。「(同じことだけど)言い方の問題だね」と言われた時に、言い方が変わったら内容も変わるじゃんと思ってしまう。そういうことを言う時、相手はきっと、同じことを同じような言葉で言い換えられてちょっと不快なんだろうなと最近わかるようになったけど、私には言い方の問題がより大きく感じられてしまう。あとは、皮肉が難しい。本当に最低限なレベルのものしか気付けない。多分皮肉を言われても9割以上に気付いてない。だから人生で皮肉を言われたことがほぼない。すぐ話を信じるねってたまに言われるけど、それも言葉をそのまま受け取る以外の方法がわからないからだと思う。そもそも嘘の話をする面白さが全然理解できてない。言葉を字面通り以外で受け取ることが望まれてる気がする時に一番体が固まってしまう。心の底からどうしたらいいかわからない。気配だけ感じるけどそこからどう動けばいいのかわからない時がほんとにやばい。何も面白くない。ただただ辛い。察しが必要なコミュニケーションは一生できないと思う。言葉で言われないと何もわからない。ちいかわの〇〇ってコト?ってやつ本当に共感する。〇〇ってことかどうかを確認できないと前に進めない。だから日本語向いてないと思うのかな。他がどうだか知らないけど

だから京都で暮らすのは難しそうと思った。多分今回の旅行の居酒屋でも皮肉か何か、わかんないけど肌感として数回かだけど言われてた感じがしたけど、具体的に何なのか全然わからなかった。肌感だけあるの怖い。ただの感覚間違いだったらいいけど。パリ人と京都人って似てるのかな。『エミリー、パリへ行く』の1話で見たパリの人の感じとちょっと似てる気がした。1話しか見てない。

言い換えても同じことを表現できると思いたくないのは、すべてのものの固有性を信じてるからだと思う。だから人間に対して上位互換とか言う言葉を使う人を軽蔑するし、言われた時は殺意が芽生えた

嫌なことがあった時に自分ノリで考えると自分が悪かったのかなとか自分が人間的に良くないのかなとか考えてしまうけど一回心の中に韓国(ドルオタ)オンニツイッターの人格を召喚してみると相手が普通に悪かったと思えて自責とのバランス調整が可能

授業で先生から共感する力は人よりあるけど共感させる力がないと言われて、考えてみたら、確かにそうだなと思った。自分が良いと思ったものを人に伝える力がないし、伝えたいという気持ちを持ってない。そして感動ポイントが人とズレてることが多い。(そこじゃなくないって思われてる体感がよくある そこじゃないと思うのはただお前の意見か、もしくは一般的な考えに過ぎないだろって思うけど数でも説得力でも勝てないから何も言わない/言えないことが多い)ということのデメリットが結構感じられた一年だったような気がする。そもそも何に対してもあんまり真剣に感動できてないからデメリットだけが目立ってるっぽい。共感してもらえた時は嬉しいから、単純に説明する力がないだけなのかもしれない。

今年はたくさん好きなものを見つけるとかやったことないことやるとか思ってたけど全然できなかった。"情熱"をスローガンにしてたのに情熱もなかった。全部来年に繰り越す そこに"陽気"も足す 全部新しいスタイルで取り返す

 

 

251209

 

年の瀬⭐︎

今年の半分ずっと休んでるけど、先月くらいから休み切った感覚になった。良い時間を過ごした。夜の大通りを見て車のライトが綺麗だなと思える時は元気、音楽を聴いて耳が痛く感じる時は元気がない。音楽は聴かなさすぎて聴き方よくわからなくなった。私が音楽に何を求めるかよくわからない。また週5日働くってイメージしづらくなってるまであるのが少々不安だけど大丈夫と思うしかない、週5の8時間勤務はできるだけ早いうちに辞めたい

Iとか나をつかいたいな 私って言葉が好きじゃない

『ダイナマイト・キス』Netflixでみてる 今週と来週の木金に1話ずつ公開されてクリスマスに完結する韓国ドラマ。ラブコメ演出にそれはないだろ!とか言いつつ楽しめるのは、ドラマの中で前提になっている価値観とか社会の様相の捉え方に疑問を持たずに済むからであって、それって簡単なことじゃないなと思う。笑うことって気を許してないとできないから、制作者への信頼が生まれてないと難しい。恋愛が絡むとなお難しいという気がする。ドラマの中でのセリフの捉え方が自分とシンクロしていなかったりしたらそこが引っかかって前に進めなくなる。

先週見た『マリー・アントワネット』のミュージカルもそうだったように、女性同士の連帯を絶対に強調してくれるので安心して見られる有難い。『マリー・アントワネット』ではマリーアントワネットとマルグリットアルノーという架空のキャラクターが実は姉妹だったという新たな追加設定により、富豪と市民という階級差を超えた心の通い合いが描かれていたけど、アルノーのマリーに対する同情心の描写は良い加減で留められていて、良かったと思う。権力によって苦しめられていることは大前提で憎しみが覆ることはなく、でも少しだけ同情の心を持つという描き方の慎重なバランス配分を感じた。面白かったかは別の話だけど...『エリザベート』のほうが数倍面白かった。ドヨンは頑張っていたけどフェルゼンのキャラクターの裏の面がもう少し見えたら良かった。

今年美味しかったものをたまにはまとめておこうかなと思って開いたのに違う方向に行ってしまった

政治が終わってて新しい情報見かけるたびに嫌な気持ちになる毎日。既得権益を守ることばかりに時間とお金を使ってるようだけど、すでに中身はスカスカで、やってる当人たちは自分たちが死ぬまで持てば良いと思っているようだが、虚しい。既にいつからかCMやポスターなど街や動画サイトで見る広告クリエイティブは虚無さが極限まで達してる。上手く楽しく騙そうという技術がない。『国宝』の吉沢亮とかが絶賛されてしまうくらい俳優と演技のクオリティーも落ちている。その俳優を起用した広告の力も当然落ちている。頑張っても既得権益の壁が厚くてどうせセンスない剪定で切り捨てられて何もできないから、みんないなくなってしまったのではないか 才能を囲って"使う"ことしか考えない人たちが権力勾配の上に絶対にいるので、気力が失われたのではないか

韓国に行くのは最早、資本主義が街中でもう少し生気を持って機能してる様子を見に行きたいからかもしれなくて、ソウルでは広告クリエイティブは虚無になり切ってはいないし、コスメやエンタメが魅力あるパッケージを保っている 今読んでる『暇と退屈の倫理学』で紹介されていたラッセルの幸福論のように、いまの韓国の若い世代が新しい世界を作り出す運動ができる世代であったからたまたま熱意を持ってやれているだけで、そういうハイな状況じゃないとやり切れないシステムということかも そう考えるとやっぱデフォルトが週5で8時間なのは今すぐ辞めたほうがいい 熱意が生まれ得ないので、出来ない

BTSが2025下半期活動できなかった理由ってなんですか わかってる人がいたら教えて パンシヒョクの詐欺(疑惑)のせい?シュガが全く姿を現さないのもどうして 飲酒電子バイク運転くらいで謹慎?制作に専念...?RMはまた不眠症になってるらしい

自分の文章が自分の文章なのかわからなくなってきた 怖い どうにかしたい 他の人は文章書くとき常に同じ自分で書けているのかな?気になる

 

 

 

 

250924

 

なんかもう9月が終わりそうになっていて驚いた  秋6日目くらいか こんなに明確に秋があるのは久しぶりな気がする すぐ終わってしまうんだろうな 冬は嫌だな 夏も冬も嫌となると結構厳しいな 私にとっての魔の時間である11月に韓国行くことにしたのでそれでどうにか乗り越えたい

なんか目がおかしくてコンタクトすると上手く焦点合わなくてやばいので明日眼科に行く 目がちゃんと見えてないと文章読むのがものすごく大変になるな 

市民プールに行って泳いでみたら水が怖くて怖かった。泳ぐのは本当に下手。25メートル往復を10本も泳げず終わる。止まらず50メートル泳ぐとかもってのほかだった。クロールは特に全然できない。クロール実際これまで一度もできたことない。ずっと無理してただけで安定感があったことがない。今日は朝本当に久々に少しだけ走れて驚くほどすぐ疲れた。朝走るのも水泳もルーティーン化したいが・・・プールのウォーキングゾーンでおばさまたちが駄弁りながら何周も歩き続けていて良かった。飲み会よりあっちのほうが良いと思う。あれが流行れ。

みんなの仕事が17時に終わって食べて飲んだ日も21時に家に帰れれば良い生活になるのにな 8時間も働く必要ない10時-17時で良い全員

ドキュメンタリー映画を色々見てる。語りが明確に感じる人と、この人は思ってることを喋ってるのかなと感じる人の違いはなんだろう。字幕はニュアンスを拾わないから明確に感じるだけなのか。昭和の人の話し方あれなんなんだ。この70年とかでどうしてみんな喋り方変わったの。不思議すぎる。どんなドキュメンタリー映画が良いのか全くわからない。どうせ撮影して編集したらフィクションになってしまうのに初めから失敗する試みをするというのが不合理。戦場カメラマンが撮る写真みたいな。映像資料を超えるものがあるのか未知。これまで全く興味を持ったことがなかったから。本など少し読んでみたい。

ジェームズ・グレイアルマゲドン・タイム』2022 圧倒的だった。フレームの外に果てしない世界の広がりを感じさせてくれるもの。この奥行きが見たくて映画を見ている気がする。自分が生きてる場所も当然自分の目で見えてる景色の周りに世界は広がっていて、でもそれは絶対見ることはできない。映画だって同じようにカメラに映ってるものしか見えないはずなのに、それ以外の場所にまで風が吹いてることがわかる、その心強さ、心の広さ、器のでかさ、世界を広い意味で肯定すること

映画のテーマ自体が2022よりさらに2025に意味を持つようなもので、日々の自分が映画になってるようだった。それにまつわる色んな低次元のツッコミは全部分かった上でそういうものの意味がどれだけめちゃくちゃ薄いのか、自分の生きたことや経験がどれだけ広がりを持って大きなものなのか。それを堂々とスクリーンに映し出すことが映画にできる数ある魔法の一つだから、久々に映画見たなと思った。理想論とかで片付けることで失うものの大きさが画面になっていた。この残酷すぎるあまりにも不公平で暴力的な現実との対峙の仕方について。言葉で簡単に片付けてしまう場合すべてがただ浅くなるだけだと忘れるのがあまりにも簡単すぎる。

マンキウィッツ『幽霊と未亡人』1947 のラストシーンも盛大な魔法だった だいぶありえない!すごい!ありがとう!男尊女卑おじさん幽霊とのハッピーエンド許せないようで許せてしまう やっぱなんでも一枚岩ではないからな あれがハッピーエンドなのかも、定かではないし でもそんなこと関係ないんだよな、映画のハッピーエンドって 絵本作家か船長って今まで見た三角関係の中でも謎メンツで面白い

ヴェーラの特集行きたいけど渋谷ってあまりに遠いし嫌いな場所

こないだバスで席譲れた!断られたけど!断られた時ってゴリ押しするべきなのかな あっそうですかって言って座っちゃった 私が断った身だとしたら限りなくどっちでも良いからまあいいか

一人暮らしする前に心の底わからなくて気になっていた、"友達が遊びに来た時に片付けしないで帰ったらどんな気持ちになるのか?"については、マジで心底どっちでも良いけど、「なんかやれそうだった」とか「やりたかった」以外の動機でやってくれるのは結構嫌だ という結論になった 「やるのが常識だから」とかで動かれると嫌だ これめっちゃ人によりそうだな エゴってこゆこと?